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■╋■╋ スポットライト・コラム
╋■╋ ― カトリシズムを縦糸に、昭和精神史を横糸に織りなす
■╋ 意欲的評論集
╋ 『須賀敦子と9人のレリギオ』
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須賀敦子-その人と名前は一度は聞かれたかたは多いと思われます。
あるいは熱心な読者も多くおられるでしょう。
私事で恐縮ですが、わたしの母親(1929年生まれ)と同年代、十数年
前、本人著の表紙をスーツ姿の須賀さんが飾っており、母親の着てい
たものと襟のところなどデザインが随分と似ているなあ、とその時代
を彷彿とさせたことでした。
1929年は昭和4年ですので、副題の言うように、須賀さんの生きた時代
や思考の足跡はまさしく、「昭和の精神史」です。
昭和の精神史、というと例えば、日本浪漫派や永井荷風・三島由紀夫
などの分析に優れた桶谷秀昭『昭和精神史』を思い出しますが、本書
は「カトリシズム」に関わった人の論考、それも作家、科学者、司祭、
彫刻家、皇室等々と間口広く渉猟しており、斬新な企画内容と思われ
ます。
問題の提起も、また幅広く、色々なことを考えさせてくれます。
例えば、著者とお付き合いすることによって、リトルギア(典礼)と
いうことばを知りました。これは、プロテスタントが、「聖書」とい
うテクストを中心に信仰を深める、というに対して、典礼の持つ意味
を信仰に結びつけようというものであるようですが、これは「身体論」
を考える上で随分と参考になると思いました。
文芸評論家の富岡幸一郎氏は、書評でこういっておられます。
「リトルギア(典礼)とは、個人を超えた「形」の思想であり、それ
は来歴の身体化であり、宗教的にいえば見えざる神との対話の可能性
であった。実はこのラテン語のリトルギアは、著者によれば「始源の
なぞり」の意味で「複製」の謂であり、それは絶えざる反復によって
維持されることで「常にオリジナル」になるという。…このテーマは
そのまま日本の天皇(制度)との比較を招かずにはおかないであろう」
(http://nichigai.blog.shinobi.jp/)
(最後のところの論究など出来たら、面白いでしょう。著者の次作に
期待したいところです)
また、須賀さんの共同体論については、「人々の対話のなかに、協同
のなかにこそ精霊が働いている、われわれは親しい人々の関係の中に
死んでいく・・・」という美しい言葉で語られています。廻りとの関係に
ついて須賀さんはこういう見方をしていたのかと。須賀さんは名文家
といわれますが、この辺が、ファンを引きつけて已まない須賀さんの
思想の真骨頂なのか、と思ったことでした。
本書ではさらに、村上陽一郎氏の科学観の解釈、小川国夫氏の銃後の
戦争体験、皇后陛下の短歌・長歌等々、我々が通常触れることのない
世界を、カトリシズムを縦糸に、昭和精神史を横糸によく織りなされ
ていて、当たり甲斐があります。ただし難しいのではありますが・・・。
参考までに、私の地元では、4つの図書館が全て購入していただいて
おり、関心が高いのか、いつも貸し出し中となっております。
有り難いことです。
(編集部・朝日)
◆ 『須賀敦子と9人のレリギオ―カトリシズムと昭和の精神史』
(日外選書Fontana) 神谷 光信〔著〕
定価 3,800円(税込) 四六判・220p 2007年11月刊
http://www.nichigai.co.jp/sales/2070-7.html